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東京地方裁判所 昭和45年(ワ)6261号 判決 1972年1月27日

原告 武藤孝志

被告 東京保健生活協同組合

右代表者理事長 安達繁

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 江藤鉄兵

同 小見山繁

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

(請求の趣旨)

一  原告が被告東京保健生活協同組合(以下被告生協という)に対し、雇用契約上の権利を有することを確認する。

二  被告生協は原告に対し、次の金員を支払え。

(一) 金三二、五五〇円およびこれに対する昭和四四年七月二五日から完済に至るまで年五分の割合による金員

(二) 金一六六、二〇〇円およびこれに対する昭和四四年七月二二日から完済に至るまで年五分の割合による金員

(三) 昭和四四年八月一日から同四六年一二月三一日まで毎月二五日限り金四五、四二三円五八銭(合計金一、三一七、二八四円)および右各月分に対する当該月の二五日から完済に至るまで年五分の割合による各金員

(四) 金二、九七五円およびこれに対する昭和四五年一〇月六日から完済に至るまで年五分の割合による金員

三  被告生協および被告正部家章夫(以下被告正部家という)は、原告に対し、各自金二、二〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四五年一〇月六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

四  被告生協は原告に対し、書籍一巻(鈴木郁生著「薄層クロマトグラフィーの実際」)を引渡せ。

五  訴訟費用は、被告らの負担とする。

六  仮執行の宣言(第一項を除く)

(答弁)

主文第一、二項同旨

第二当事者の主張

(請求の原因)

一 原告は医師であるが、昭和四〇年四月被告生協に雇用され、その根津診療所において週二回、準夜診療と宿直の業務に従事してきた。

二 ところが被告生協は、昭和四四年七月一九日原告を解雇したと主張し、原告が雇用契約上の権利を有することを争っている。

≪以下事実省略≫

理由

一  請求の原因第一、二項の事実(雇用契約の締結と雇用契約上の権利に関する争いの存在)は当事者間に争いがない。

二  解雇の効力

(一)  被告生協が昭和四四年七月一九日、原告に対し、懲戒解雇の意思表示をしたことは当事者間に争いがない。

(二)  解雇事由

1  ≪証拠省略≫によれば次の事実が認められる。

昭和四四年七月一八日朝(被告生協は、原告が宿直したのは七月一八日夜であると主張するが、原告本人尋問の結果により七月一七日夜であるものと認める。)被告生協の根津診療所において、二階診察室にあった血圧計、聴診器および水道の排水口について被告生協主張のような事故が発見された(なお、そのため血圧計はメーカーに修理を依頼せざるをえなかった。)。また、三階医局の中にある所長のロッカーの鍵は普通ロッカーの上においたままになっていたが、同日朝は鍵がかけられ、その鍵がなくなっており、約一か月後に付近にあった植木鉢の受皿の下にあるのが発見された。さらに、正面玄関の鍵は、当直の医師が朝早く帰る際に、郵便受けに入れてゆくことになっていたが、同日朝は入っておらず、この鍵は現在まで発見されていない。

前日には右血圧計等について何ら異常はなかった。前日の七月一七日夜の宿直は、原告、被告正部家および事務員朝倉の三名であり、原告は三階医局内に宿泊し、被告正部家と事務員朝倉の両名は七月一八日午前零時ごろまで三階におり、右時刻ごろ四階へ行って就寝し、七月一八日午前八時ごろ起床した。

聴診器の曲った管の部分には、熟練した医師あるいは看護婦でないと不可能なような方法で綿がつめ込まれていた。これより少し前の昭和四四年六月三日、原告は、注文した印刷物の代金額のことで診療所内で印刷業者と争いを起し、被告正部家と所長が仲裁に入ったことがあったが、(原告本人尋問の結果によれば、原告はこれを快く思っていなかったことがうかがわれる。)その直後の原告が当直医であった夜、患者のカルテがばらばらにされていたことがあった。

被告正部家が原告に対し電話で解雇の通告をした際、解雇の理由として前記血圧計等の件をあげたところ、原告は敢えてこれを否定せず「ふふん」と鼻で笑っていた。

以上の事実を総合すれば、被告生協が解雇事由として主張する血圧計等の事故は、すべて原告の所為であると推認される。右認定に反する原告本人尋問の結果は措信し難い。

2  ≪証拠省略≫によれば、原告の患者に対する態度は、時に乱暴で威圧的であって、これについての患者からの苦情が他の医師に比較して特に多かったことが認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果は措信し難い。

(三)  就業規則の適用

≪証拠省略≫によれば、被告生協の就業規則には職員の懲戒処分に関して被告生協主張のような各条項が存することが認められる。

原告の前記認定のような診察態度だけでは、右就業規則第二五条第一号の「著しく院所の名誉を傷付け」たとまではいい難く、またこれをもって第二号の「素行不良にして、他に影響を及ぼしたとき」に該当するとはいえない。

しかし、原告の前認定の行為のうち、血圧計、聴診器およびロッカーの鍵の件は第六号の「故意により、什器備品を棄却した場合」に、水道の排水口の件は第六号にいう「故意により、什器備品に準ずるものを棄却した場合」に準ずる程度の不都合な行為のあった者(第七号)に、玄関の鍵(原告がこれを私物にしたかどうかは明らかではないが、少くとも持出したことは明らかである。)の件は第五号にいう「許可なく院所の物品をもち出し、私物にした者」に準ずる程度の不都合な行為のあった者(第七号)にそれぞれ該当するものというべきである。

(四)  解雇の相当性

右の就業規則に該当する行為は、児戯に類するものであり、これによる物質的損害も取るに足りないと思われる。しかし、これらは異常な行動としかいいようがないものであって、患者の生命、身体を預る重大な使命を有する医師としては、その適格性を疑わせるに十分である。

したがって、被告生協がこれらを理由に原告を懲戒解雇したのは不相当とは認められず、解雇権の濫用とはいい難い。

三、昭和四四年六月分給与

昭和四四年六月三日、被告生協から原告に対し、金二五、〇〇〇円が支払われ、これを被告生協が原告の昭和四四年六月分給与から控除したことは当事者間に争いがない。

右金二五、〇〇〇円の支払が賃金の前払(弁済期の繰上げ)であるならば、労働基準法第二四条第一項に違反しないことはもちろんである。

もしもこれが賃金であったとしても(給与が毎月二〇日締切りで二五日支払であったことは被告生協において明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。そうすると六月三日当時原告が有する給与請求権は前月の五月二一日から六月三日までの二週間のものであり、これがすでに金二五、〇〇〇円に達していたかどうかは疑問である。当時の給与は一回勤務につき金四、五〇〇円で、原告は週二回の勤務であったからである。もしも金二五、〇〇〇円に達していなかったとすれば、賃金の前払ではなく、貸金とみざるをえない。)≪証拠省略≫によれば、昭和四四年六月三日の時点で、原告は右金二五、〇〇〇円を六月分給与から控除することに同意していたことが認められ、右事実によれば、給与債権と消費貸借に基づく返還債務との相殺の予約が、原告と被告生協間で成立していたものというべきである。

そして、賃金債権と使用者が労働者に対して有する債権とを、労使間の合意によって相殺すること(相殺予約ないし相殺契約)は、それが労働者の完全な自由意思によるものである限り、労働基準法第二四条第一項の定める賃金の全額払の規定によって禁止されるものではないと解される。

右六月三日の原告の意思表示(相殺予約)が強迫によるものであるとの原告の主張に符合する原告本人尋問の結果は、≪証拠省略≫と対比して措信し難い。また右相殺予約締結の際、医師である原告が、在職中であるために事実上自由意思を抑圧されていたということも証拠上全くうかがわれないし、そのようなことは考えられない。右予約は原告の完全な自由意思によるものと認められる。

したがって、被告生協が、相殺予約に基づく権利を行使して金二五、〇〇〇円を六月分給与から控除したことは、労働基準法第二四条第一項の賃金の全額払の原則に反するものではない。

なお、被告生協の右措置は、原告の主張する賃金の直接払の原則に反するものではないことは明白である。

四、昭和四四年七月分給与

原告は、準夜往診の手当は一回金三五〇円であったと主張するが、≪証拠省略≫により金三〇〇円であったことが認められる。したがって、昭和四四年七月分給与は、金三二、五五〇円ではなく、金三二、五〇〇円となる。

被告生協が右金額およびこれに対する昭和四四年七月二五日から四六年一二月八日までの年五分の割合による遅延損害金として金三、九五〇円(この間の遅延損害金の額をやや上廻ることは計算上明らかである。)を昭和四六年一二月八日に原告に対し弁済のために提供したが原告がその受領を拒否したことは当事者間に争いがなく(提供した金額は弁論の全趣旨により右金額であったものと認める。)、≪証拠省略≫によれば被告生協は翌日これを東京法務局に供託したことが認められる。

したがって被告生協にはもはや昭和四四年七月分給与の支払義務はない。

五  賞与

原告本人は、昭和三九年か四〇年に、当時の根津診療所事務長との間で、原告主張の額の夏期および冬期賞与を支給する旨の合意が成立したと供述しているが、にわかに措信し難い。その後全く支払がないときもあり、また支払があっても主張の額以下であるのに、原告がこれに対して異議を申し出たという事実が証拠上認められないからである。

また前記就業規則第二三条には、「給与は給与規定によりこれを支給する」との定めがあるが、右給与規定に原告のようなパートタイムの医師についても賞与を支給する旨の規定があることを認めるに足りる証拠はない。

したがって、原告の賞与の請求は理由がない。

六、不法行為

(一)  原告を精神病にしようとしたとの点について

原告の主張に符合する原告本人尋問の結果は、根拠のない憶測に過ぎず、到底措信し難い。

(二)  被告正部家の暴力について

原告の主張に符合する原告本人尋問の結果は、措信し難い。≪証拠省略≫によれば、原告が被告正部家から鍵を取ろうとしてそのポケットに手を入れようとしたので、被告正部家が原告の手を払いのけた事実があったに過ぎないことが認められる。この程度の有形力の行使は違法性を有するものではない。

(三)  解雇の申渡しについて

原告の解雇が不当でないことは前述のとおりである。

(四)  昭和四四年一一月二五日の名誉侵害について

≪証拠省略≫によれば、同被告が原告に対し、主張のようなことを述べたことが認められる。

しかし、民法によって保護される名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉を指すものであって、単なる主観的な名誉感情は含まない。電話による一対一での応対によっては、右にいう社会的名誉、評価は侵害されるものではない。

したがって、被告正部家の右言動は違法性を有しない。

(五)  事実無根の主張をしたとの点について

前記のとおり、被告生協の解雇事由の主張は十分根拠のあるものである。

七  取立費用

≪証拠省略≫によれば、原告は被告生協に対し、これら内容証明郵便によって、様々の要求をし、多額の金員の請求をしていることが認められる。ところが当時原告が請求することができたのは昭和四四年七月分給与だけである。

したがって、仮に取立費用が債務不履行または不法行為による損害といいうるとしても、原告が主張する費用のうち、どれだけが右昭和四四年七月分給与の取立に必要な費用であったかを確定することができない。

八  書籍

原告主張の書籍を被告生協が現在占有していることを認めるに足りる証拠はない。

九  結論

よって、原告の被告らに対する請求はすべて理由がないからこれを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 矢崎秀一)

<以下省略>

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